中日双语|随笔·巡访日本文化人(11)浅利庆太与音乐剧《李香兰》

栏目:人物资讯  时间:2022-11-23
手机版

  浅利庆太(1933—2018年)

  生于东京,庆应义塾大学文学院法语专业肄业。戏剧导演、剧作家。1953年参与创立四季剧团,被誉为“日本音乐剧之父”。曾执导音乐剧《西区故事》《蝴蝶夫人》《美女与野兽》《李香兰》,固定剧目《猫》等。

  浅利慶太と言えば、ミュージカル。筆者と浅利慶太氏を取り持った縁もミュージカルであった。

  说到浅利庆太,就离不开音乐剧。我与浅利庆太也是因音乐剧而结缘。

  浅利氏は慶応大学在学中、1953年に仲間らと共に劇団四季を創設、『キャッツ』や『ライオンキング』の上演を手掛け、日本におけるミュージカルブームをつくり出したことはあまりにも有名。63年、東京に日生劇場を建設したことも知っていた。筆者が60~70年代、新華社記者で東京滞在中、浅利氏に関する新聞報道をよく目にし、日生劇場にもしばしば足を運んだが、浅利氏にお会いする機会はなかった。

  1953年,浅利先生在庆应大学读书时,与伙伴们一同创立四季剧团,上演了《猫》《狮子王》等知名音乐剧,在日本引发音乐剧热潮。1963年,浅利先生在东京开设了日生剧场。上世纪六七十年代,我在东京做新华社驻日记者时,在报上经常看到关于浅利先生的报道,也常去日生剧场,但未曾有机会与浅利先生见面。

  浅利氏との初対面は、86年だった。その頃、筆者は中国政府文化部で、国際文化交流を担当していた。北京での会見の話題も、もっぱらミュージカル。そのとき、ミュージカルと中国の伝統演劇の比較について語った浅利氏の話が印象深い。

  第一次与浅利先生见面,是1986年。当时,我在文化部参与国际文化交流方面的工作。那次在北京见面时谈的话题,也都集中在音乐剧上。当时,浅利先生将音乐剧与中国传统戏剧相比较,那番话令我至今印象深刻。

  

  浅利庆太与笔者夫妇

  「京劇や中国の地方劇は歌あり、せりふあり、しぐさありで、言ってみればミュージカルそのものですよ。中国には、ミュージカルを広める素地があり、潜在力があります」

  “京剧和中国的各种地方戏中,有歌,有台词,有形体动作,说起来就是音乐剧啊。中国有发展推广音乐剧的基础和潜力。”

  この会見で決まったのが、88年、劇団四季によるミュージカル『ハンス?アンデルセン』の北京公演。丁度、中日平和友好条約締結10周年に当たり、初めてミュージカルに接した北京市民も多く、公演は想像以上の成功を収めた。北京1カ所で4回の公演だったが、初日前の3日間に4000枚の入場券が全部売り切れるという盛況ぶりで、この公演によって、中日文化交流にミュージカルという新しいジャンルが開かれた。

  1988年四季剧团在北京演出音乐剧《汉斯·安徒生之恋》,就是由那次会见决定的。那年正好是中日和平友好条约缔结10周年,许多北京市民第一次接触音乐剧,演出获得了超乎想象的成功。仅在北京就举办了四场演出,第一场开演三天前,四千张门票就一售而空,盛况空前。此次演出为中日文化交流打开了音乐剧这一全新领域。

  92年4月、浅利慶太氏は劇団四季を率いて中国へ2度目の公演に来られた。演目は氏の創作と演出によるミュージカル『李香蘭』であった。

  1992年的4月,浅利先生第二次率四季剧团到中国演出,剧目是他编导的音乐剧《李香兰》。

  これについてはいろんな思い出がある。確か88年の11月だったと思うが、中日友好21世紀委員会第5回会議に出席のため東京に行ったとき、ある晩、浅利氏は友人の香山健一氏(同じく21世紀委員会の委員)と共に、銀座の高級料亭「吉兆」で一席設け、もてなしてくださった。席上、浅利氏は今後の企画として、中国人も日本人もよく知っている李香蘭の一生をミュージカルにしようと思っているがどう思うかと尋ねられた。東北出身の筆者は、小さいときから李香蘭の名前や、いわゆる「満州国」でその果たした役割を知っており、民衆の間に積もっている不満?不評をじかに感じ取っていただけに、「このことは、慎重にされた方が良いのでは?」と遠回しに思いとどまるよう提案したことがある。

  关于这部音乐剧,我有诸多回忆。1988年11月,我为参加中日友好21世纪委员会第5次会议前往东京,当晚,浅利先生与同为21世纪委员会委员的友人香山健一先生在银座高级日本餐厅“吉兆”设宴款待。席间,浅利先生提到,自己想将在日本也很知名的李香兰的经历搬上音乐剧舞台,并询问我们的意见。我生于东北,自小便熟知李香兰其人和她在日军控制伪满洲国的过程中发挥的作用,亲身感受到了百姓的积怨。因此便委婉地表达了自己的不赞成:“关于这件事,是否应当再慎重一些?”

  李香蘭は、1920年、いわゆる旧満州(中国の東北地方)に生まれ、中国人養父母から「李香蘭」の名をもらい、日本軍部の息のかかった支配者らの肝いりで、「中国人歌手?女優」としてデビュー。いわゆる「満州国」の建国から日本の対中国全面侵略戦争、太平洋戦争へと突入したあの暗い時代に、日本の「国策」による宣伝工作に協力したかどで、戦後中国から反逆罪に問われ、死刑を宣告されそうになるが、出身が日本人であることが証明されて、無罪釈放となる。

  李香兰1920年生于东北,中国养父母为她取了这个名字。在日军的操纵策划下,李香兰以“中国女歌手、演员”的身份出道。从伪满洲国建立,到日本发动全面侵华战争、太平洋战争的那段黑暗时期,李香兰参与了日本以“国策”推行的宣传工作,因此在二战结束后,被中国判处死刑,但由于证明了自己的日本人身份,最终得以无罪释放。

  北京で浅利氏に再度会ったとき、ミュージカル『李香蘭』を完成する意思の固いことを知った。氏の話によれば、台本を書くに当たって、劇の主人公?李香蘭こと大鷹淑子(旧姓山口)に会い、特に2点確認してもらった。①日本は中国を侵略したと思うか?②中国人民に対して罪があると思うか? 大鷹氏はこの2点を全て認めた上、中国人民に対する謝罪の気持ちを表した。これを聞いて、浅利氏はこれなら書けると決意し、上に述べたような時代背景の下に生きた山口淑子の悲劇的な半生を描いたばかりでなく、日本軍部の残虐性と「盲目的な愛国主義」をも批判して台本を書き上げた。これらの内容を表現するため、浅利氏はわざわざ中国東北地方に赴き、かつて日本軍が無実の中国人を集団虐殺した「万人坑」の遺跡などを実地検証し、さらに、「九一八事変(いわゆる「満州事変」)」後に中国で歌われた悲憤慷慨に満ちた歌曲『松花江上』を直接取材し、創作ミュージカルに取り入れている。なぜ浅利氏は劇の重点をここに置いたのだろうか? 作家?城山三郎氏との対談の中で、浅利氏は次のように述懐している。

  在北京再次见到浅利先生时,我感受到了他想要完成《李香兰》这部音乐剧的坚定信念。据浅利先生所言,在撰写台本时,他曾与李香兰本人,也就是大鹰淑子(旧姓山口)有过交流,并向她询问了两个问题:一是是否认为日本对中国实施了侵略?二是是否认为对中国人民犯下了罪行?大鹰淑子均给出了肯定的回答,并表达了对中国人民的歉意。因此,浅利先生才确定这部剧可以做下去。在剧本中,他不仅再现了生活在上述时代背景中的山口淑子悲剧性的前半生,也批判了日军的残暴和“盲目的爱国主义”。为了更好地表现这些内容,浅利先生特地到东北搜集素材,实地走访了日军虐杀大量无辜中国人的“万人坑”等遗址,还在音乐剧中采用了表达中国人民在“九一八事变”后的悲愤之情的歌曲《松花江上》。为什么浅利先生将这部剧的重点放在了这里?在与作家城山三郎的对谈中,浅利先生如是道:

  「ショックだったのは、劇団の若い連中があの時代について何も知らなかったことです。僕たちがあれだけのたうちまわった時代、いつまでも深く心に傷跡を残しているあの時代を、四半世紀も年が離れていないのに、全く知らない人間が日本にたくさんいるということに驚いた。だからこそ、僕たちが生きた時代とはどういうものだったかということを、ドラマで見せたかった」「もし争い戦えばどういうことになるかということを今世紀の戦争が貴重な教訓を残しています。だからこの二つの民族と国家は、決して戦ってはならない。どんな難しい状態になろうとも、仲良くしなければならない。それが日中友好の原点だと思います」

  “剧团里的年轻人们对那个年代一无所知,这一点令我受到冲击。那个时代曾令我们深陷痛苦挣扎,给我们留下了深重的心灵创伤,然而,仅仅过去不到四分之一个世纪,日本就已经有许多人对那个时代一无所知了,这一点实在令人震惊。因此,我希望通过戏剧,让他们看到我们所生活的时代的样子。”“战争将会导致怎样的后果?对于这个问题,本世纪的战争已经为我们留下了宝贵教训。因此,我们两个民族、两个国家,决不能再发生战争了。无论处于何种困难的境况,也必须要把关系搞好。我想,这就是日中友好的出发点。”

  

  正在执导的浅利庆太

  ミュージカル『李香蘭』は91年1月東京で初公演、年間公演回数184回、観客は18万人に達し、大成功を収めた。

  1991年1月,音乐剧《李香兰》在东京首次上演,当年共演出184场,观众共计达18万人,获得了巨大成功。

  たまたま、日本を訪問していた中国政府文化部の賀敬之部長代理(大臣相当、歌劇『白毛女』の作者の一人)が観劇後、劇作家の浅利氏の勇気を絶賛したことが、ミュージカル『李香蘭』の中国公演の決め手となった。しかし、賀氏は2点ほど、補強のための考えを率直に示された。抗日戦の中で果たした八路軍と新四軍の役割と、周総理の言われた「前事不忘、後事之師(前事を忘れざるは、後事の師なり)」を強調されるよう提案したが、いずれも取り入れられた。

  时任文化部代部长的贺敬之(歌剧《白毛女》作者之一)正好在访日期间观看了这部剧,高度评价了编剧浅利先生的勇气,并促成《李香兰》在中国上演。不过,贺敬之也坦白地提出了两点补充想法,一是在剧中要强调八路军和新四军在抗日战争中发挥的作用,二是突出周总理曾说过的“前事不忘,后事之师”。这两点都被采纳了。

  中国公演は、北京を皮切りに東北地方の3都市――長春、瀋陽、大連と決まったが、日本に対する一般大衆の気持ちを考え、記者会見や座談会を開き、さらにビデオ観賞、懇談や説得などの事前工作を行うことによって万全を期した。その結果、公演回数15回、観客2万という想像をはるかに上回る成果を上げることができた。

  音乐剧《李香兰》最终确定在北京和东北三地——长春、沈阳、大连进行演出,考虑到普通民众对日本的情绪,事前进行了多方准备,例如举办新闻发布会、座谈会,组织观看录像及许多其他动员工作。最终,《李香兰》共在中国演出了15场,观众达两万人之多,盛况远超预期。

  大連の千秋楽に、竹下登元首相と夫人が参加された。大連は筆者の出身地、北京から駆け付けてお迎えし、公演の成功を祝うパーティーで、文化部を代表してあいさつをした。

  「中日国交正常化20周年を迎えるに当たり、両国人民があの戦争のもたらした不幸を回顧し、友好の歴史を振り返ることは、殊の外重要な意義を持つものと思います」「若い世代に対して正しい歴史観で教育して初めて、子々孫々仲良くすることができ、アジアと世界の平和と安定に有利であります」

  日本前首相竹下登及夫人在大连观看了收官演出。大连是我的家乡,因此我也特意从北京赶去欢迎,在演出的庆功宴会上,代表文化部致辞。

  “今年是中日邦交正常化20周年,在这样一个节点,回顾那场战争为两国人民带来的不幸,重温两国友好往来的历史,具有格外重要的意义。”“只有用正确的历史观对青年一代进行教育,才能实现两国间的世代友好,并为亚洲与世界的和平与稳定助力。”

  その直後、国際映画週間の活動で北京を訪れた「李香蘭」こと大鷹淑子氏を、北京の崑崙飯店でもてなしたとき、思いがけなくも、席上氏は立ち上がり、丁重に「今日は中国政府関係者の皆さまを前にして、自分の過去を深く反省し、お詫び申し上げます」と言われた。とっさに、周総理の言葉を思い出して応じた。

  「歴史を忘れず、未来志向でいきましょう」

  演出结束后不久,李香兰,也就是大鹰淑子女士到北京参加国际电影周活动,在昆仑饭店的招待宴会上,大鹰淑子女士站起身,郑重地说道:“今天,在各位中国政府相关人士面前,我想对自己的过去,表示深刻反省和歉意。”这番举动十分出乎意料,那一瞬间,周总理的一句话浮现在我的脑海中,我便用这句话做了回应:

  “让我们‘以史为鉴,面向未来’吧!”

上一篇:自然资源部东海局直属事业单位2022年度公开招聘(普通岗位)拟聘人员公示
下一篇:【我的桃花源】打卡西山民俗文化节 感受房山古村落魅力